2016年01月18日
--------茶の湯はどのようにして生まれたのでしょう--------
■禅僧栄西が広める
茶は奈良時代以降、唐や宋に学んだ留学僧によってもたらされたと考えられていますが、本格的な喫茶の風習は、鎌倉時代に禅僧栄西が広めたことに始まるとされています。
■寄り合いの芸能として登場
中世には、郷村制における村の協議機関である寄合で一味同心(注1)を図るため、連歌や茶、いけばななどが行われるようになり、庶民のなかで、寄合の芸能としての「茶の湯」が登場します。
(注1)一味同心=同じ目的を持って集まり、心をひとつにすること。
■大名たちの豪華絢爛な遊び
一方上層階級では、茶の名産地や等級を当てる「闘茶」というゲームが流行り、金品を賭けた闘茶会が催されました。
また、中国の茶器「唐物」がもてはやされ、有力大名が大金を使って蒐集し、飾り付けるしつらいを設けた茶室を作り、これらを使って大規模な茶を中心とする宴会=茶会を催すことが流行します。
とりわけ足利将軍家は代々茶に親しみ、三代義満は宇治に指定茶園を設けて庇護し、八代義政は銀閣寺に茶室をつくって、東山派といわれる豪華厳粛な茶の湯を流行させました。
■日本的な不足の美を求めて
これに対し、一休宗純のもとで禅の修行をした村田珠光は、賑やかな宴会のなかで楽しむ茶の湯に対し、簡素な日本の工芸品も使い日本的な不足の美を求める茶の湯、すなわち茶禅一味(注2)を追求した「わび茶」の精神に至ります。
これが今日の茶道の源流となり、その後、弟子である武野紹鴎が発展させ、千利休によって完成されたといわれています。
(注2)茶禅一味=茶道は禅から起こったものであるから、求めるところは禅と同一であるべき、の意。
■千利休の登場「わびの美」
そして、千利休は独創性を発揮して「わびの美」にふさわしい数々の道具や点前、作法、美意識などを創造し、人びとの心の交流を中心とした緊張感ある茶の湯を目指しました。これらは「もてなし」と「しつらい」の美学といえ、日本の風土が育んできた文化的な結晶といえるものでした。
こうして、生活を芸術化する日本文化の特徴をもっとも表している芸道として、今日に至っています。
(藤沼祐司)
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